幸福の還元について

初投稿です。

 

最近、幸せだな〜と感じる事が多かったので、幸せについて少し考えてみました。


今自分は大学生で、ありがたいことに一人暮らしをさせてもらっていて、趣味の登山やスキー、それにサーフィンなど好きな事をできるだけの時間とお金の余裕があり、友人や良い大人との出会いにも恵まれ、欲しいものがあればアルバイトや親に借金するなどして手に入れることもでき、ほとんど不自由のない生活をさせてもらっている。


高校生の頃までは、自分が恵まれた環境で育ってきたということなど殆ど感じる事もなかったが、最近ようやく恵まれて生きてきたという事実に気づいた。


今まではむしろ、これは自分の力で手に入れた自由であり幸福であると勘違いをしていたが、実は自分が今恵まれた環境の中で生きていけるのは、自分の努力の賜物などではなく、自分を育ててくれた親や周りの大人の方々や友人などに「たまたま」恵まれたというだけのことであった。


そこで、ふと「たまたま」恵まれない環境で育ってきて、幸福であると感じることのできないままに生きているの人たちがいるという事に気づいた。


その人たちは、その人たちの意思で努力を怠ったり漫然と生きてきたのではなく、そのようにしか生きることのできないような環境で育ってきたわけで、その人たちを批難したり揶揄したりするのは的はずれなのではないかと思うようになった。


このような事を思った事もあり、最近は「たまたま」自分が恵まれた環境で育ち多くの幸福を感じることができているのであれば、それを我が物顔をして「たまたま」幸福になれなかった人たちを無視しながら自分の幸福だけを追求するのではなく、その人たちの人生を少しでも幸せにできるような生き方をしていきたいと強く感じている。
その生き方をどう実現するかはまだ何もわからないが、困っている人がいたら助けるなど、当たり前の小さな事から始めていこうと思う。


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この話を知り合いに話したところ、この考えはNoblesse Oblige(ノブレス オブリージュ)の考え方と似ていると言われたので調べてみると、

 

Noblesse Oblige:身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観。もとはフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」の意。

出典:デジタル大辞泉

 

とのことで、身分の高いものは普段豊かな暮らしをしているので、有事の際には彼らが率先して身を投じるというような意味の言葉らしい。そこで「身分の高いもの」という部分を「たまたま恵まれている人」というように少し変えてみると、


『たまたま恵まれている人はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという~道徳観』


となる。Noblessse Obligeという言葉はフランス語で「高貴さは(義務を)強制する」という意味なので、少し表現を変えた上の言葉はBonheur Oblige「幸福は(義務を)強制する」とでもいえるだろうか。このように少し言葉を変えてみると自分の考えていたことが腹に落ちる感じがする。これは幸福の社会に対する還元とも言えると思う。


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上に書いてきたようなことを何となく考えながら日常を過ごしていると、楽観的な自分には珍しく、すこし落ち込むような出来事があった。そのときに感じたのは、「自分がまず幸福でないと人の幸福を考える余裕はできない」ということであった。もしかしたら、自分が不幸でも人の幸福を考えられるような人もいるかもしれないがおそらく多くの人はそうではないと思う。このことから、理想論ではあるが幸福な状態にある人はそうでない人のために思いやりの心を持てるような人が沢山いる社会になれば良いと思った。


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幸せな人が増えるといいな。

 

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笠ヶ岳より雲海に沈む夕日を望む